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2006/12/14

「近代日本文学の終焉」批判序説

 こんばんは。

 今日、団体交渉中の会社Sから「内容証明郵便」が僕のところに届けられ(笑)、夜は夜で別の会社Bと団体交渉しました。書記長が出張しちゃうと、とたんに役員品薄の国公一般から出撃しなければならないのは僕爆撃機だけで、会社の会議室、ずらっと並ぶ役員さんとたった一人の僕、2時間あまり丁々発止(ちょうちょうはっし)やりやうのは、本当に疲れる。失敗すれば、会社から労働審判に持ち込まれたりして、今日のように突然に、内容証明郵便が届くことになる(笑)。

 こんな日々を2年半続けてきて、最近、分かったことは、日本の純文学が衰退する理由である(笑)。
 文芸誌『文学界』『群像』『新潮』『すばる』、そして『文藝』……、かつて僕が毎月愛読していた雑誌は、もうほとんど見えない彼方に遠のいてしまった。ニッポンの「批評家」柄谷行人は、日本は近代を達成したので(近代的人間は書き尽くされたから)近代文学は終焉(しゅうえん)せざるを得ない、残された物語は些末なことだ、と書いたが、そんなことが理由なのではない。

 日本文学が終焉する本当の理由は、日本の労働者には、純文学を読む時間と精神的なゆとりがまったくないということ、それだけである。日本の純文学がつまらないとか、すべては書き尽くされたとか、そんなことが大きな問題なのではない。戦後だけ振り返っても日本の純文学の質は高く、さらに遡及(そきゅう)して、近代的人間の端緒が、競争と情愛(福沢諭吉)のなかで人間同士が「他人とは何か?」と問い、それを探究することにあったとするなら、その問いの答えは未だに提出されていないし、いま「描き尽くされた」などと宣(のたま)うのは、文学貴族たちの傲慢(ごうまん)に他ならない。
 科学にならって言わせてもらうと、人間の姿が描かれれば描かれるほど、人間の闇(やみ)の部分は広がっていくものなのだ。

 
 昨日の労働相談で、僕は発見してしまったのだ。
 その労働相談は、ある省庁で働く契約労働者が、昼休み中に読書していた、あるいは作業ズボンの後ろポケットに文庫本をしまっていたという理由で「自宅待機命令」を受けたという事案なのだった。自宅待機命令を求めたのは会社の上司ではなく、実は、彼の同僚たちで、ひとりで本を読んでいる彼が「協調性が欠けている」「自分勝手な行動」と映ったらしいのだ。同僚たちは、会社に対して「○○氏の件での嘆願書」を出して、彼を自宅待機にしてしまったのだ(!)。
 昼休み中に何をしようと、そして、ポケットに何を入れようと、それは労働者の自由なのである。なのに、読書する彼を村八分にする集団性が、この日本社会に醸成しつつあったのだ。
 夜になって、僕は、ほとんど泣きそうになりながら、彼を事務所の外に送っていった。いつもの決めゼリフ「君はまったく悪くない。悪いのは、この狂った世界の方なんだよ」と言って……。彼の背中が新橋のネオンのなかに見えなくなったとき、僕は、アルバイト時代の僕が、この時代に袈裟(けさ)切りにあったような絶望を味わって、しばらく呆然(ぼうぜん)と立ちつくしていた。
 昼休み中の彼が一人読んでいた文庫本は、中上健次さんの『枯木灘』だったかもしれないし、遠藤周作さんの『深い河』だったかもしれないし、もしかしたらドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だったかもしれない。
 

 極めて私事になるけれど、大学の法学部に入学したはずの僕は、近代日本文学の泰斗(たいと)・夏目漱石の小説と偶然に出会ってしまったことから、まったく授業に出ずに、日本と世界の小説ばかり読む日々を送った。そのお陰で、教養部の卒業試験ではドイツ語の単位が足らず、ドイツ語教授に「天皇制について論じなさい」というお題で小論文の追試をしてもらったし(笑)、法学部では、選択した労働法ゼミすら休みがちで、最後は、卒論を免除してもらったほど、とにかく小説ばかり読んでいた。
 
 卒業した僕は、大手メーカーや大手銀行のキャリアや上級公務員になっていく仲間を尻目に、一介のアルバイト生活に入り、新聞配達を筆頭に、倉庫番や引っ越し、古本屋さん、コンビニ、家庭教師、予備校講師、さまざまな仕事を転々としながら、漠然と、好きな本を読み、好きなことを書いて一生暮らせたら最高だよな~と思い、誰にも見せることのない駄文を綴(つづ)って、とにかく本ばかり読んでいた(笑)。
 予備校講師のとき、一度だけ労働組合について教えてもらったことがあるが、その労働組合は、全共闘くずれの自己顕示欲の強い講師だけが集まった「文句言い」の集まりに見えて、まったく魅力がなく、加入しようとは思わなかった。つまり、当時の僕は、働くルールを学んだり賃上げの運動なんかをする時間があれば一編の短篇小説を読んでいた方がいいという価値判断を下したのだった。
 お陰で、大学の4年間を含め14年の長きにわたって四畳半アパートで暮らし、愛した人とも結婚もできないまま、ここまで来てしまいました(笑)。

 あれから10年が過ぎて、僕は作家になることもなく、国家公務員の労働組合の、単なるオルグとして生きている。読書に投じる時間があれば、解雇された人やパワハラやセクハラで心傷ついた人の相談と解決に奔走する時間にあてたいと思っている。しかし、僕の「職場で傷ついた他人を何とかしたい」という思いは、紛れもなく近代日本文学が抱えた宿痾(しゅくあ)の痛みそのものだと自覚している。はるかなる20代の読書時代がなければ、いまの僕の心に芽吹いた痛みの感受精神はないだろうと思うし、職場を転々として働いた日々がなければ生まれなかった芽だ。現代日本のすぐれた作家たちは、一人の例外もなく、この痛みをどのように乗り越えればいいのかを豊かな想像力でのみ模索している。

 24時間灯りの消えない「不夜城」霞が関を毎夜のように見上げながら、ここに日本の純文学が読まれる空間はないという確信にいたる。大蔵省をすぐに辞した三島由紀夫さんは、きっとそう思ったに違いない。そうして、昼休みの間、ささやかな読書をする労働者を職場から弾き出そうとする、同僚たちの凶暴な集団性を発見するとき、近代日本文学の終焉の理由は、作家の精神性や創造性の枯渇とか小説という形式の賞味期限といった歴史性ではなくて、実は、われわれが働いている、この日本社会そのものが、純文学など排除してしまえと言わんばかりの暴力装置と化しているからなのだと気づくのである。

 われわれが本を読まなくなったから、ではなく、この狂った世界で生き残るには、純文学を読んではいけないのである。

 今夜は、ほとんど泣きそうだ。

 くだらない政治家、くだらない会社役員、くだらない省庁官僚……、お金も権力も、すべてを手にしているはずの彼らには、純文学だけがすっぽりと抜け落ちている。逆に、僕には何もないが、純文学だけがある(笑)。

 今夜は、ほとんど泣きそうだ。

 かつて、若き大江健三郎さんは、飢えている子の前で文学は可能か?と自問した。
 再び僕は自問する、純文学なんて読む時間な~い、読む余裕すらな~い、純文学など読んじゃ駄目~とされる日本社会で身を粉にして働く労働者の前で、やはり純文学は可能なのか?と。

 僕は、小さな声で答えたい。
 「……それでも純文学は可能だ」と。

 そのためにも、遅ればせながら、僕は法律を本格的に学ぶのだ(笑)。

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